「あのゲーム、来月でサーバーが閉じるらしいよ」——友人からそう聞かされたのは、忘年会の帰り道だったような気がします。かつて毎晩のように待ち合わせては、画面の中の街を意味もなく走り回っていた場所。攻略も競争も抜きに、ただそこに誰かがいることが楽しかった時間。それがある日を境に、この世界のどこからもアクセスできなくなる——そう聞いて、うまく言葉が出なかったことを覚えています。駅前で解散したあとも、しばらく夜道を無言で歩いていたような、そんな気配だけが記憶の底に残っています。

本を読み終えても、本棚にその本は残ります。映画を見終えても、円盤は手元にあります。けれどオンライン専用のゲームは、サービスというスイッチが切られた瞬間、手元に何も残らないことがあります。アプリのアイコンだけがそこにあって、タップしても、あの街にはもう入れない。積み上げたキャラクターの成長記録も、誰かと交わした他愛のないやり取りも、まとめて向こう側で電源を落とされてしまう。所有していたはずのものが、実は「遊ばせてもらっていた」だけだったのだと、そのとき初めて気づいたような気がします。
サービス終了が発表されたゲームには、最後の瞬間までログインし続ける人たちがいると聞きます。ふだんは顔も知らない仲間内で、その日だけは待ち合わせをして、最後の花火を見上げたり、キャラクター同士で並んで記念のスクリーンショットを撮ったりする——そんな光景を、私はどこかで見た気がしています。実際に自分がそうしたのか、誰かの話を自分の記憶のように差し替えてしまったのか、正直なところもう判別がつきません。それでも「最後の夜」を惜しんだ人が、世界のあちこちにいたことだけは、確かなことのように思います。
厳密に言えば、消えるのはサーバー上のデータであり、プログラムです。けれど当事者の感覚としては、消えるのはゲームそのものというより、そこで過ごした夜や、隣で笑っていた誰かとの時間のように思えてなりません。受験前の深夜にこっそり起動していたこと、部活帰りに自転車を漕ぎながら早くログインしたいと思っていたこと、扇風機の音を聞きながら液晶の光だけで部屋が青白く染まっていたこと——ゲームの中身よりも、そういう周辺の記憶のほうが、なぜか鮮明に残っている気がします。だからこそ「遊べなくなる」ことは、思い出そのものを失うことのように感じられるのかもしれません。
海外のあるゲーム保存団体が2023年に行った調査では、アメリカで2010年より前に発売されたゲームを無作為に1,500本抽出したところ、いま正規の手段で買えるものは13%ほどにとどまり、残る87%は「危機的」と評価された、と報告されています。ディスクを持っていても、それを動かすハードウェアごと手放してしまえば、結局は遊べなくなる場合があるのだそうです。パッケージソフトでさえこの状況ですから、サーバーの存在を前提とするオンライン専用のゲームは、なおのこと保存が難しいはずです。私たちが「買った」と思っているものの多くは、実際には「遊ぶ権利のライセンス」であり、その権利は運営会社の判断ひとつで終了しうる——このことは、頭では分かっていても、あの喪失の夜まで実感していなかったように思います。
近年は海外で、オンライン専用ゲームの終了時にもオフラインで遊べる形を残すよう求める市民運動が広がり、欧州の市民イニシアチブに寄せられた署名は100万人分を超え、2026年1月の検証では有効署名が129万筆に達したと伝えられています。運動の主張は、サーバーを永久に維持してほしいという話ではなく、「サービスが終わるときに、遊べる形を少しでも残してほしい」という、ささやかな着地点を求めているように私には読めました。有効期限をあいまいにしたまま「いつまでも遊べます」という空気だけを提供してきた側にも、向き合うべき宿題があるという指摘もあるようです。派手な議論の背後にあるのは、結局のところ「あの時間を、なかったことにしないでほしい」という願いなのだと思います。
この問題は、個人の「相続」というかたちでも顔を出します。何年もかけて育てたアカウントやアイテムを、自分が死んだあとに家族へ遺せるかというと、多くのサービスの利用規約では、それは想定されていません。海外のあるプラットフォームは、2024年、利用者からの問い合わせに対して、遺言があってもアカウントを他人へ引き継ぐことはできないとはっきり答えたと報じられています。一方で、ゲームアカウントの使用権に財産的な価値を認め、相続の対象になり得ると判断した海外の裁判例も、2026年に入って話題になりました。銀行口座や不動産のように目に見える形を持たないものだからこそ、家族が存在にすら気づけないまま契約だけが自動更新され続ける、という話も耳にします。答えはまだ一つに定まっていません。ただ、時間や思い入れを注いだものを「遺せるかどうか」を、私たちはこれから真剣に考える時代に入ったのだろうと思います。
結局のところ、サービスが終わったあとに私たちの手元に残るのは、保存していたスクリーンショットと、断片的な記憶くらいのものかもしれません。フォルダの奥から見つけた低解像度の画像一枚に、当時のBGMが自動的に脳内で再生される——そんな経験がある方は、少なくないのではないでしょうか。画面録画や実況動画を見返すことで、あの頃の空気をたどり直す人もいるようです(ゲーム実況を「見る」ことについて、以前この随筆でも触れました)。記録としては頼りないものですが、正確さを競う必要はないのだとも思います。思い出は、正確でなくていい。多少美化されていても、その時間が確かに自分にとって大切だったという感覚さえ残っていれば、それで十分なのかもしれません。
個人の記憶とは別に、ゲームという文化そのものを保存しようとする動きも、少しずつ広がっているようです。図書館や研究機関がプレイ映像や資料をアーカイブする取り組み、有志が仕様や記録を残そうとする活動——どれも地味で、すぐに脚光を浴びるものではありませんが、「あの時代、こういうゲームがあり、こう遊ばれていた」という記録を、未来に渡そうとする営みなのだと思います。それは大きな博物館だけの仕事ではなく、私たち一人ひとりが持っている、ささやかな記憶の断片の積み重ねでもあるのでしょう。もし今、思い入れのあるゲームがまだ遊べる状態にあるなら、スクリーンショットの一枚、プレイ日記の一行だけでも残しておくと、いつか誰か——もしかしたら未来の自分——の役に立つかもしれません。あなたが今夜、消える前に残しておきたいと思う画面は、どんな景色でしょうか。
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