今日も最初のボスで三回死んだ。これは随筆の中の仮想的な体験として書いているけれど、似たような夜を過ごしたことがある人は少なくないと思う。同じ攻撃モーションを何度も見て、同じところで倒れ、コントローラーを膝の上に置いて一度息を吐き、また画面に戻る。腹は立たないと言えば嘘になるが、不思議と手を止める気にはならない。傍から見れば苦行にしか映らないその繰り返しに、なぜ人はお金を払い、時間を差し出すのだろう。売れていないものについて「なぜ売れるのか」と書くわけにはいかないので、数字をひとつだけ置いておく。バンダイナムコエンターテインメントとフロム・ソフトウェアの発表によれば、『ELDEN RING』の世界累計出荷本数は2025年3月時点で3,000万本を超えた。もっともこれは飛び抜けた一本の話で、難しいゲームが軒並み売れているという証拠ではない。以下は、その一本を含む「難しさ」が支持を集める理由を、罰としてではなく達成感の設計として眺めてみる試みだ。

断っておくと、「死にゲー」という言葉は、そもそも初見では避けようのない一撃で殺されるタイプのゲームを指して使われることもある。だから以下は、この言葉のいちばん広い意味の話ではなく、私が好きなほうの死にゲーについての話だ。そこで繰り返される「死」は、罰ではない。攻撃には予備動作があり、回避には猶予がある。負けるたびに、次はどこを見ればいいかという手がかりが一つ増える。これがフェアな難しさというものだと私は思っている。逆に、画面の外から不意打ちのように運が絡んだり、情報が与えられないまま結果だけを突きつけられたりするのは理不尽さで、両者はよく混同されるけれど、プレイヤーの中では確実に違うものとして積み重なっていく。フェアな難しさに何度はね返されても、指はまた同じボスの部屋の扉を開けにいく。けれど理不尽さに続けて足をすくわれると、コントローラーはいつのまにか机の上に置かれ、そのまま戻ってこない。作り手が本当に恐れているのは、たぶん後者の方だ。
易しいゲームにも快さはあるが、そこにあるのは主に発見や物語の心地よさだ。難しいゲームの快さは少し違う。何十回と失敗した末にようやく攻撃をかわしきったとき、上達したのは自分の指先と判断そのものだという実感がある。ゲームが与えてくれたのではなく、自分で獲得したという手触り。これは短時間で得られるものではないぶん、簡単には色あせない。数値としての経験値ではなく、体で覚えた勘のようなものが積み上がっていく感覚と言った方が近いかもしれない。
死にゲーにはいくつか共通する型がある。攻撃の予備動作、回避できる猶予、体力とスタミナの管理。プレイヤーはその型を覚えることで、最初は理不尽に思えた壁を、乗り越えられる難しさへと読み替えていく。不思議なもので、型が見えてきた瞬間、それまで目で追いきれなかった敵の動きが急にゆっくりと見え始める。自分にどんなジャンルが合うのか迷ったときは、ゲームジャンルの選び方を先に眺めておくと、難しさそのものへの心構えも少し変わってくるかもしれない。
難しいゲームを遊び切った人たちの間には、独特の連帯感があるように見える。「あのボスを倒した」という一言だけで通じ合える空気があり、それは自慢というより、同じ苦労を知っている者同士の合図に近い。誰かのクリア報告を見て、自分もまた挑もうと思う。攻略法を教え合うやり取りにも、勝ち負けとは別の温度がある。難しさは一人きりの戦いに見えて、実はこうした小さな旗の連なりに支えられている部分が大きい。
配信文化と死にゲーの相性の良さは、偶然ではないと思う。上手い人のノーダメージクリアには職人技を見る面白さがあるし、下手な人が何度も倒れながら少しずつ攻略していく様子には、また別の面白さがある。見ているとき、私が引き込まれるのは結果よりも途中の悔しさや粘りのほうだ。配信者が同じ場所で三回転んだだけで画面のコメント欄が盛り上がるのも、上手さそのものより過程が見られているからだろう。難しさは、遊ぶ本人だけでなく、見ている人の時間まで巻き込む設計になっている。
ボスを倒した瞬間の高揚感は、実はそれほど長く続かない。むしろ後から効いてくるのは、そのあとにやってくる静けさの方だ。エンディングのあとに残るもので触れたような余韻は、難しいゲームほど深く刻まれる気がする。「あの一戦はきつかった」と誰かに話すとき、自分がどんな苦労を選んで通ってきたかが、そのまま人となりのように語られていく。どれだけ苦労したかという記憶は、いつのまにか自分がどんなプレイヤーであるかを語る言葉の一部になっていく。
とはいえ、難しいゲームは積まれやすい——というのは統計を見て言っているのではなく、私の棚がそうなっているという話だ。忙しい週が続けば、あの理不尽に感じた一撃をもう一度受け止める気力が湧かない日もある。パッケージを見るたびに少し気が重くなり、それでも捨てる気にはなれず、棚の同じ場所に居座り続けることもある。積みゲーはなぜ生まれるのかで書いたように、積むこと自体は失敗ではなく、遊びとの距離を測る自然な調整弁だと私は考えている。難しいゲームほど、その調整弁は敏感に働くように思う。
ここで強調しておきたいのは、難易度選択もアシスト機能も、決して恥ずかしい近道ではないということだ。これは私の気休めではなく、業界の側がそう言っている。ゲームアクセシビリティの横断ガイドラインは、基本項目として「幅広い難易度の選択肢を用意すること」を挙げ、さらに「オートエイムや操作補助といったアシストモードを含めること」「プレイ中に難易度を変更できるようにすること」を求めている。Xbox のアクセシビリティ指針にいたっては、こう書いている——「アートやストーリーを味わうことだけを目的にゲームを買う人もいる。そうした人は、技量にかかわらず、作品の絵や物語を楽しむために難易度を『イージー』や『ストーリーモード』に設定するかもしれない」。
つまり「物語を味わいたいから易しくする」は、想定外の遊び方どころか、作り手が最初から見込んでおくべき遊び方として名指しされている。プレイステーションの一部タイトルに、戦闘を軽くして探索と物語に集中できる「ストーリー」という難易度が用意されているのも、同じ考え方の現れだろう。事情は人それぞれで、そのすべてに応える入り口が用意されていることは、ゲームというメディアの成熟の表れだと思う。標準難易度で苦労することも、易しい設定で物語を追うことも、選んだ理由が違うだけで、遊んでいる事実に優劣はない。
| 入り口 | 合いやすい人 | 得られるもの |
|---|---|---|
| 標準難易度 | 手探りの試行錯誤に時間をかけたい人 | 苦労そのものの手応え |
| 易しい難易度 | 物語や世界観を中心に味わいたい人 | 詰まらずに読み進める快さ |
| アシスト機能 | 特定の操作や反応速度に負担を感じる人 | 自分に合わせて調整できる自由 |
今日も同じボスで三回死んで、四回目でようやく攻撃の隙間が見えた気がした。上手い人からすれば呆れるほど遅い上達かもしれないけれど、それでいいと思っている。難易度を下げることも、アシストを使うことも、遠回りに見えて実は正式な近道だ。誰かと上達の速さを比べる必要はどこにもなく、ただ自分のペースで壁の向こうを見に行けばいい。大事なのは、画面の向こうの続きを、まだ自分の手で見にいきたいと思えているかどうか、それだけではないだろうか。
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