エンディングが終わったとき、しばらく画面を消せなかった。そういう経験が、私には何度かある気がしている。スタッフロールが流れ終わって、タイトル画面に戻っても、コントローラーを置きそびれたまま、ぼんやりと光を眺めていた。そういう夜のことを、ふとした拍子に思い出す。

たいていのゲームは、クリアした後すんなりと終わる。達成感があって、コントローラーを置いて、また明日から普通の日常に戻る。それで十分な体験だし、それがほとんどのゲームとの付き合い方だと思う。
でも、ときどき違う夜がある。画面を消す気になれない。ゲームが終わったことは分かっているのに、もう少しそこにいたいという気持ちが残る。明日も仕事があって、夜もそれほど遅くはないのに、なぜか立ち上がれない。
何かが足りない感覚なのか、名残惜しさなのか、自分でもよく分からなかった。ただ、そういう夜は確かにあった、という記憶だけが残っている。
振り返ると、長い年月の中でそれなりの本数のゲームをプレイしてきた気がする。その多くは、正直なところタイトルすら思い出せない。クリアした記録は残っていても、何を感じたかはほとんど消えている。
それなのに、特定の1本だけが記憶の奥に残っていることがある。何年か前のゲームなのに、ある場面の空気感や、ラスボス戦の直前の静けさや、エンディングで流れたあの曲だけを、妙にはっきりと思い出せる。
何がそのゲームを「残るもの」にしたのかを考えると、あまりはっきりした答えが出ない。グラフィックが特別に美しかったわけでも、ストーリーが完璧だったわけでも、おそらくなかった。どこかに小さな瑕疵があって、攻略の途中で詰まった記憶もあったはずなのに、それは薄れて、別の何かだけが残っている。
記憶が選り分けるのは、体験の「正確さ」ではなく、「そこで自分が感じた何か」なのかもしれない。
どういうわけか、あのゲームのことを思い出すとき、まず音が来る。情景より先に、言葉より先に、特定の場面で流れていた曲のフレーズが頭の中に戻ってくる。
それが鍵になって、次第に場面が浮かんでくる。そのとき何時くらいだったか。部屋が暗かったか、まだ外が明るかったか。一人だったか、誰かがそばにいたか。そういう周辺の記憶が、音楽に引っ張られて戻ってくることがある。
同じ曲を、同じ場面で何度も聞く。ゲームという遊びには、そういう時間が組み込まれている。私の場合、そうやって曲と場面が一緒に刻まれていったのだろうと思っている。記憶の仕組みについて何か知っているわけではない。後になって街中やどこかでその曲を耳にしたとき、急にあの画面が目に浮かぶ感覚がある。それは少し不思議で、悪くない感覚だと思っている。
好きだったゲームの続編が発表されたとき、純粋に喜べないことがある。うれしい気持ちは確かにある。でもそれと同時に、少し不安のようなものが混じる。
うまく言えないのだが、あのゲームの終わり方は、あれで完結していた気がしていた。あの結末の後に「続き」があると知ることで、自分の中に形成されていた何かが書き換えられるような感覚がある。続編が面白くてもそれはそれで良いし、前作の評価が変わるわけでもないのだが、何かが変わってしまうような気はしてしまう。
それでも、やはりやりたいと思う。矛盾しているのは分かっていて、でもやはりやりたい。この気持ちも、そのゲームが記憶に残っているからこそのものだと思う。
あるゲームをリマスター版やリメイク版で「もう一度」遊ぶとき、いつも少し迷う。あのときの記憶を更新することへの躊躇がある。当時感じたことは、当時の自分のスペックで受け取ったものだ。今の自分がもう一度やったとき、同じものが戻ってくるかどうか分からない。
逆に、「あのゲームはあのままにしておきたい」という気持ちで、意図的に再プレイしないものもある。記憶の中にあるそのゲームが、今の評価より少し美化されているのは分かっている。でも、あのときのあの感覚を大切にしたいという気持ちを、捨てるのも惜しい。
どちらが正解かは、たぶんない。ゲームが終わってからも、いろいろな関わり方があっていいと思っている。あの夜に消せなかった画面のことを、今もときどき思い出す。それ自体が、一つのゲーム体験として続いているのかもしれない。
次に「これかな」と思った1本を選ぶヒントは、どのジャンルから始めるか — 積みゲーにしない「最初の1本」の決め方にもまとめている。
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